私の中の「五十年」―文芸おとふけ五十号(平成30年)発刊記念特集に寄せて

     私の中の「五十年」

                     青山昌弘

 

 一九九五年八月六日(日)、音更町文化センターにお

いて文化事業協会十周年記念事業の一環として、ミュー

ジカル「銀河鉄道の恋人たち」が上演されました。

 実行委員長は、写真屋さんの田中隆夫氏。率先垂範、

開店休業も何のその、強力なリーダーシップと情熱をも

って、スタッフ、キャストを町内はもとより広く十勝管

内から公募。結果、ミュージカルの制作は一一〇人もの

大所帯による一年掛かりの取り組みとなりました。

 作者の大橋喜一氏(一九一七~二〇一二)は音更が舞

台となった戯曲「火山灰地」を書いた久保栄の直弟子。

戦後、劇団民芸の座付き作家として長らく活躍した新

劇界の代表的な劇作家です。

 大橋氏は、宮沢賢治の代表作「銀河鉄道の夜」の主要

な主題、カンパネルラとジョバンニの「友情と自己犠牲」

を基に、被爆地広島を舞台に原爆症の五郎と、とし江と

いう若い二人の「悲恋物語」として、新たに戯曲「銀河

鉄道の恋人たち」を書下ろし、八四年にそのミュージカ

ル版を演劇雑誌テアトロに発表しました。

 ミュージカル版が発表されたその年の五月、私は帯広

柏葉高校の演劇顧問をされていた種田稔先生から、北見

市で開催される全道高校演劇発表大会の参加作品とし

て、ミュージカル「銀河鉄道の恋人たち」の作曲を依頼

されました。

 ただ、そのときは上演時間の制約によって、原作をほ

ぼ半分の六〇分に短縮していました。しかし、私はその

台本を一読するや直ぐこの「正に歌われるべくしてそこ

に在ったことば」が放つ「強い力」を直観し、一〇日ほ

どでピアノ版十二曲を仕上げるも、いずれは、全編三〇

曲を作曲することを確信していました。

 それ以来、九〇年までにミュージカル全編の独唱や重

唱や合唱及びオーケストレーションを書き終え、初演の

九五年まで、私は児童劇団や社会人演劇などの舞台音楽

やミュージカルなど九本を作曲。また八六年の自主映画

の音撮りでは、当時、帯響はまだ結成されていなかった

ので、ヴァイオリンニストの牧野貴博氏にお願いして、

弦楽器奏者を集めて室内オーケストラを編成し、文化セ

ンターで録音をするなど、音楽関係を始め演劇や画家の

人たちなど、様々な交流を通してミュージカル上演のた

めの体制を模索していきました。

 このように高校演劇の発表会から初演の年まで、その

準備に十年を要したのですが、ドラマ創りの要である演

出は「劇団扉」の石田昌志氏が担当しました。彼は子供

たちにお芝居の種を蒔こうと八八年から私と二人で始

めた帯広児童劇団の演出もしていました。また、舞台監

督には、このミュージカル作曲のきっかけを作って頂い

た種田稔先生にお願いしました。

 一方、音楽関係では、長らく帯広柏葉高校で教鞭をと

っておられた渡部裕隆先生が種田先生同様、ちょうど教

職を退職されたときでしたので、音楽監督兼指揮者をお

引き受け頂くよう「拝み倒して」しまいました。

 また、練習から本番ソロまでのピアニストは橋本美雪

さんに、オーケストラは音更高校の岩倉秀孝先生を通じ

て帯広交響楽団にお願いしました。帯響は児童劇団のミ

ュージカルなどで既に何度か私の音撮りをしていまし

たが、渡部先生の丹念な音作りのために、コンサートマ

スターの牧野氏の下、木野福祉館を会場に何度も何度も

夜遅くまで練習をして頂きました。

 ところで、ミュージカルの役者には台詞や演技の外に

歌や踊りも求められます。しかし、この公演で一人の役

者にあれもこれもは無理な話。そのため役者の配置はそ

れぞれの得意分野が生かされるよう、分担されました。

 ソロや合唱も渡部先生のとても熱心なご指導を頂き

ましたが、別けても先生が何度も話されていた「台詞は

歌え、歌は語れ。」という文言は名言で、例えば劇中の

天の川の鳥追い、「赤ひげ」役の岡田哲男氏の「歌いっ

ぷり」は、正に名言そのものでした。

 踊りの振り付けは細野ひとみさん。彼女のジャズダン

スに基づく振り付けは天才的で、既にその名声は十勝中

に鳴り響いていました。劇中では、銀河鉄道に乗り合わ

せた乗客たちによるコーラス、「ビキニのお魚の唄」の

スピード感溢れる振り付けは、ほとんど圧巻でした。

 舞台の裏方では、五〇名ほどのスタッフも大活躍で、

舞台監督の種田先生を中心に、先生の温かいお人柄もあ

って、舞台制作の様々なアイディヤが生まれました。

 例えば、百人を超えるスタッフ、キャストの意思疎通

のために、制作の田中ツヤ子さんは本番前日まで「かわ

ら版―ginga」を発行し続け、あれこれ日々の情報を発

信。また、スタッフ全員にお揃いのポロシャツを用意し

て、一目でそれと分かるようにするなど、これらは後年

十勝管内の舞台制作のモデルにもなりました。

 さらに北海道新聞の若い記者、矢羽々洋之君は小道具

を作る傍ら取材を続け、新聞紙面に八回のシリーズを掲

載、広くミュージカルの周知と宣伝に努めてくれました。

 舞台美術においても、喫茶「銀河」の壁に掲示された

七点の絵画は画家の古田倫之氏の手になるもので、ポス

ターやチラシにも使用されたその幻想的な絵画は各方

面からも反響がありました。

 このような裏方の面々に支えられながら、九五年八月

六日、久々に文化センター大ホールのオーケストラピッ

トを開放した昼夜二回の公演は、それぞれ千席を超えて

通路にまでも立ち見が出る盛況振りで、反面この点はご

来場のお客様とホールに対しご迷惑をおかけしてしま

ったのですが、この日、私たちスタッフ、キャスト一同

は、感動と明日へと繋がる素晴らしい思い出をお客様と

一緒に共有したのです。

 折しもこの日は、広島原爆投下から五十回目の「原爆記

念日」で、戦後五十年の節目でもありました。

 (平成30年11月1日発行「文芸おとふけ第50号」掲載)